品川・御殿山情報
2016.01/29
品川歴史館:
御殿山の“御殿”が表すものは?
実は、現在の品川区に「御殿山」という町はありません。しかし、御殿山トラストシティをはじめ、小学校、マンション、町会などの名称に使用され、現代にもその名は伝えられています。では御殿山という地名には、何故“御殿”という言葉が使われているのでしょう。その答えは、品川の長い歴史を紐解くことによって見えてきます。
現在の品川区にある京急本線北品川駅から青物横丁駅のあたりには、かつて東海道五十三次の第一宿である「品川宿」がありました。江戸の出入り口に位置するだけでなく、江戸湾側には品川港を擁し、古くから海運の要所としても栄えた品川。旅人を迎える旅籠や飲食店だけでなく、なかには女性を置く旅籠も並び立ち、多くの人で賑わっていました。
このあたりが、より一層の華やぎを見せたのは江戸時代のこと。寛永13年(1636)に品川宿を見おろす丘陵地に、品川御殿と呼ばれる将軍の館が建てられたことによります。この品川御殿は将軍の鷹狩りの際の休憩所とされていますが、江戸の入り口に位置し、その見晴らしの良さから防衛の拠点としても機能していたと考えられています。
特に足繁く通っていたのは三代将軍徳川家光。鷹狩りだけでなく、茶会なども開催していました。茶道の世界でも有名な「御殿山大茶会」は長府藩主毛利秀元が、この地で主催した茶会のこと。そう、御殿山という名前は“将軍の品川御殿のある山”に由来するのではないかと言われているのです。
もともと品川には室町時代から港町の繁栄を背景に寺が多数点在しており、寛永16年には御殿山の南麓に家光が沢庵和尚のために万松山東海寺を創建。この約15万平米以上の広さを誇る大寺院は、元禄7年(1694)の火災で焼失してしまい、桂昌院によって再建されました。品川御殿もまた、元禄15年の火災で焼失してしまいましたが、こちらは再建されることはありませんでした。
その後、八代将軍徳川吉宗の時代になると、北区にある飛鳥山ともに桜の植林が進められた御殿山は花見の名所となり、春には海岸での潮干狩りも楽しめるとあって、江戸庶民の行楽の地として親しまれるエリアとなりました。その賑わいは、歌川広重や葛飾北斎といった多くの浮世絵師によって描かれています。
しかし幕末になると、アメリカ使節ペリーの来航を阻止するための砲台である品川御台場を建設すべく、御殿山と八ッ山を切り崩して、埋め立て用の土砂が用意されました。そのため、かつては風光明媚な行楽地として名を馳せていた御殿山も景観が一変してしまったのです。また、文久2年(1862)には英国公使館が建てられましたが、攘夷派に焼き討ちされたことにより、御殿山を諸外国の公使館建設地とする計画は頓挫してしまいました。
そして、明治5年(1872)には品川に鉄道が開通し、御殿山は東西に二分割されることとなってしまったのです。港町として栄え、行楽地として愛され、文化都市としても発展していた品川および御殿山は、その恵まれた環境ゆえに歴史的な出来事の舞台となり、現代にもさまざまなエピソードが残されているのです。
そんな品川の歴史を学ぶことが出来るのが「品川区立品川歴史館」。大森貝塚や品川宿に関する常設展示では、古代から現代に至るまでの品川の歴史がわかりやすく説明されています。手入れの行き届いた日本庭園や、茶事などに利用できる書院もあり、日本文化の美しさに触れる場としても格好の場所です。
品川歴史館で地元の歴史を学べば、ただ街を歩くだけでも「この辺りでは江戸時代には潮干狩りができたのか」「沢庵和尚のお墓がこんなところに!」など、あちらこちらで発見することもたくさんあります。街を知ると、町歩きや散歩だけでなく、その街での暮らしそのものが、さらに楽しくなりそうです。
- 名称
- 品川区立品川歴史館
- 住所
- 東京都品川区大井6-11-1
- TEL
- 03-3777-4060
- 開館時間
- 9:00〜17:00(最終入館〜16:30)
- 休館日
- 月曜、祝(日祝は開館、月祝は翌火曜も休館)
※特別展・企画展開催中の休館日等は異なります。 - URL
- http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/
jigyo/06/historyhp/hsindex.html